空を舞う64の考える人

徒然なるままに書き連ねる

プライドのない世界は生きやすいか?

どーも皆さんヴィノです。

今回はプライドについてお話します。

 

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序節

とりあえずプライドの定義をここではしておきましょう

プライド英語: pride)は誇り、自尊心、自負心を意味する言葉。

 

うーんよくわからない(T_T)

 

続いて、自尊心についても調べてみよう。

 

自尊心とは、他人からの評価ではなく、自分が自分をどう思うか、感じるかである。

つまり、一時的に快感を与える、知識、技術、財産、結婚、慈善行為や性的な征服、容姿から生まれるものではなく、言い換えれば、外に求めることでも、人に与える印象でもない。

競争でも比較でもなく、自尊心の重要な原因は自分とも他人とも戦っていない状態である

自分で自分をということは自信っていうことかな?

他と比べることなしで、そんなものがつくのだろうか?

その起源には、幼いころに大人から尊重され、価値を認められたか、励まされたかといったことがある。しかし、最も重要な影響があるのは、自分自身で選択したということである。言い換えれば、自分の可能性を実現したいという気持ちから、生き方を変えるということから自尊心が育まれていく。

自尊心は、自分が有能であるといういわゆる自信と、自分に価値があるという自尊の2つの要素から成り立っている。

研究者によれば、自尊心の欠如は、不安、憂鬱、恐れ、アルコールなどの乱用、成績不振、暴力や虐待、自殺などにかかわっている

 自分が有能であると感じるには周りと比較することが不可欠であると思うのだが、どうだろうか。

実際周りと比べての自分の位置で周りからの評価も変わるし自分の評価、つまり自信も変わっていく経験を私はしてきた。

自分に価値があると感じる自尊については、コンサルタントがやるように感覚を変化させることで対処できるように思う。

 

本節

 

自信についてはどうも比較が前提にあり、下にいる人間が一人でも自信を持てる人もいればTOP10じゃないと自信を持てない人間もいるという話である。

ゲームで例を出すと、ランクが9段階あるゲームにおいて、1番上のランクに到達するまで自分は弱いと思っている人間もいれば、5段階目で俺強くね?と思える人もいるということである。

 

そう考えると比較をすることから自尊心の本質は自信ではなく、自尊であると考えられる。

 

そうすると、巷に溢れてるプライドを捨てろなどという言葉は自分に価値など無いことを認めろと言っているのと同じことである。

それで一体何が得られるのだろうか?

自尊心の欠如の部分でも語られているが、そこから生まれるものはデメリットのほうが多いように思われる。

 

ならば、なぜそんなことを言う理由があるのか?といったことに話は進むのだが、持論として洗脳したいからだと考えている。

洗脳をするためには自信や自尊を捨てさせることが計画の最初にあり、次に都合のいい思考を植え付けるといったプロセスがある。

無意識下にしろ、そういったことを教育者はやっていないか注意するべきである。

戦争中であればそういった人間を作ったとしても国家のためだと言ったならば、まかり通ったのかもしれないが現在の日本で通用するかと言われたらありえない。

自分がされたからなどという理論も、自分がされて嫌だったことをして良いのかという問題に当たるためおかしいだろう。

つまり人を否定していい人間なんていなくて、人それぞれの価値観で生きてこそであろうということである。

 

ここで1つ違う話をするが、人を殺してはいけない本当の理由は法を犯しているから等という陳腐な理由ではなく、人の人生を否定しているからなのだと考えている。

 

 

書きたいことが次々出てくるのは良いが、文章化するのが大変である。

ではでは(つ∀-)オヤスミー